カランコロン
もうすっかり馴染みになった喫茶店「エルミタージュ」 その入り口の扉に備え付けられた鐘の音が店内に響く。
「いらっしゃいませ〜」
そしてこれも、もうすっかり耳に染み付いてしまったウェイトレスの声が鐘の音に追いついてくる。
「こんにちは霞ちゃん。マスターもこんにちは」
店を切り盛りする顔馴染みの親子に声を掛けながら、信幸はいつもの席へと身を寄せる。
ガラス越しに外を見渡せるこの一番端っこの席が、彼のお気に入りだった。
「……またサボりかい?」
冷たい水の入ったコップを信幸の前に出しながら、仏頂面のマスターはさして咎めるでも無く聞いてくる。
「ま、ね。どうせもうテストも終わって今は夏休みまでのロスタイムみたいなもんだしね。出ても大して意味なんて無いよ」
そう言ってメニューを見渡す。別段変わったところは無いようだった。
「チーズケーキセットを頂戴。紅茶はいつもので」
「なーにがロスタイムですか。一年中学校をサボってここに入り浸ってる人が言っても説得力ないですよ」
他に客が居なくて暇だったのだろう。ウェイトレスの格好をした少女が隣の椅子に座って喋りかけてくる。
普段は放課後だけウェイトレスをしている霞だったが、夏休みに入ってからは一日中こうして父親の店でアルバイトをしていた。
「いいんだよ。こう見えても俺、優等生だから」
冗談めかしてそう言い返す。実際、信幸は県内でも有数の進学校に通っていた。そして、素行を除けばその成績はすこぶる芳しい。
「それに、大事なお客様にその言い草は無いだろう?」
「それはそうですけど…でも本当不思議なんですよね。どうしてこんなにサボってる人があんなに勉強出来るのか」
「そう言われても困るけど……」
「大体、容姿端麗運動抜群家もお金持ち。これで頭までよかったら詐欺ですよ、詐欺!信幸さん、天は二物を与えずって言葉知ってますか?」
指を突きつけて来る霞。その勢いに信幸は多少たじろぐ。
「そんなこと俺に言われても……あ、でも俺女運無いし、それでバランス取れてるかなー、なんて…」
「年中行事のように告白を受けている人を女運が無いとは言いません!」
断言されてしまう。 実際、信幸はもてた。付き合った女の数はすでに指の数では数え切れない。しかし、その全ては短命に終わっていた。 告白される→付き合う→振られる そんなサイクルを信幸は非常に短期間にこなしていたのだ。
「というか、なんであんなに毎回毎回すぐに別れちゃうんですか?」
「何でって言われてもなあ。別に俺が振っているわけじゃないし」
「そこですよ!」
ドンッとテーブルに手を叩きつけて霞は力説する。
「信幸さん、いっつも向こうから告白されて付き合い始めるのに、いっつも振られるのって絶対変です。いいですか。告白したって事は相手の女性は少なからず信幸さんが好きだったって事なんですよ。それなのに自分から別れを切り出すって事は何か信幸さんの方に問題があるはずなんですよ。なにか心あたりありませんか?」
霞はそう言って信幸の目を見つめてくる。まるで、どんな嘘も見逃さないと言わんばかりに。
「そう言われてもなあ。大体、そういうのって自分じゃ分からないもんだろ?」
「むう、正論ですね。それじゃあ信幸さん、参考に聞きたいんですけど今までどんな風に振られてきたんですか」
「……なんで、そんな後ろ向きな過去の告白をしなきゃならないんだよ?」
信幸は憮然とした表情で言う。当然だ。失恋話、それをよりにもよって年下の女の子にするなど、好き好んでする奴がいるとは思えない。
だが霞は、平然とそれに答えてくる。
「信幸さんが振られた理由を私が分析するためです。自分じゃ分からないんですよね? それじゃあ、だれか別の人が調べないと」
「いや、別に俺は失恋した理由を知りたいわけじゃないんだけど…」
「何言ってるんです!? このままだと信幸さん、いつまで経っても今までみたいに失恋を繰り返す事になりますよ?」
「別にそうと決まったわけじゃ…」
「決まってます! いったい今まで何度同じ事を繰り返してきたと思ってるんですか?」
「えーと、十回ぐらい?」
「私が知っているだけでも十三回です! これだけ同じ事を繰り返してるのに、次からいきなり普通の恋愛が出来るようになったらその方が変です!」
「……ていうか、なんで人の失恋の回数を完璧に把握しているのさ?」
信幸は至極当然の疑問を挟むがあっさりと無視される。
「別に根掘り葉掘り聞き出そうって訳じゃありません。それに、あくまで信幸さんの為を思っての事なんですからね」
「俺の為、ねえ……」
胡散臭いことこの上なかったが黙っておく。 それに、これ以上話をややこしくはしたくなかった。
「それじゃあ……そうですねえ、今までどんな風に振られたのか、教えてくださいよ」
「どんな風に? そんな事話して役に立つのか?」
「勿論です! 最後の別れ際だからそこ、相手も本心をぶつけて来るに違いありません。ささっ、話して楽になりましょう!」
あまり乗り気では無かったが、さりとて絶対に話したくないような過去では無い。まあいいかと思い、信幸は過去を振り返り始める。
「そうだな……前回振られたのは確か、遊園地にデートに行った帰りだったな」
「ふんふん。それでそれで?」
「デートでは特に変わったことは無かったと思う。ただ、途中から相手の機嫌は随分と悪くなっていったと思う」
「何にもしてないのにですか?」
「ああ。少なくとも自覚はないな。それで、デートの帰り際にいきなり『私といても楽しくないの?』って言われた」
「ふーん。で、その後は」
「? その後なんて無いさ。続けてさよならって言われてそれで終わり。その後は連絡も来なくなったから別れたって事になってるんだろ」
「はい? 別れた事になってるって……信幸さん、彼女を引き止めたり、後で連絡取ったりしなかったんですか?」
「連絡は元々俺からした事無かったし、それに向こうがさよならって言ってるのに無理に引き止める事も無いだろ? ストーカーじゃあるまいし」
「そうかもしれないですけど……でも、信幸さんは別れたくないとか思わなかったんですか? 好きだったんでしょう相手の女の人のこと」
「んー、まあ嫌いじゃなかったけど、別に別れるならそれはそれでしょうがないって感じかなあ」
「はあぁ……」
あまりにあっけらかんとした信幸に霞は頭を抱える。
「もしかして、他の人との別れ際もそんな感じなんですか?」
「ん? ああ、多少は違いがあるけど、大筋で見れば似たような感じかな。じゃあ今度は前々回の話をしようか」
そう言う信幸を霞は手で制す。
「いえ、もういいです。大体原因は分かりましたから」
「そうなの?」
「そうなんです」
一度咳払いをすると、霞は隣に座る信幸の目を正面からじっと見つめ、おもむろに口を開く。
「信幸さん、今まで付き合ってきた人達のこと、本当に好きだったんですか」
「え?」
「確か信幸さん、いつも向こうから告白されて付き合いだしてましたよね」
「あ、ああ」
「それで、断れなくてただなんとなく付き合っちゃっただけで、本当は相手の人の事好きでもなんでも無かったんじゃないですか?」
「……別にそうだとしても、それと俺が振られる事と何も関係ないだろ」
「……分かってませんねえ信幸さん」
得意げな顔をして霞は続ける。
「女の人ってのは基本的に独占欲が強いんです。好きな人を独占したい、自分も好きな人に独占されたい、って思うものなんです。それなのに信幸さんは相手の女の人にたいして淡白すぎるんですよ。だから相手の人は信幸さんに満足出来なくて直ぐに別れちゃうんです」
「ふーん、そんなもんなのかねえ」
「そんなもんなんですよ。まあ、その程度で別れちゃう相手の女の人も本気で信幸さんが好きだったとは思えませけどね」
得意げに言い放つ霞。去年までランドセルを背負っていたお子様に何が判るんだとは思ったが、それを口にしないでおく程度の賢明さを信幸は持ち合わせていた。
コトッ
ものも言わずに、マスターが頼んでいたチーズケーキセットを運んでくる。 アールグレイの独特な香りが周囲に漂う。
「と・こ・ろ・で、信幸さん?」
「ん?」
チーズケーキにフォークを突き刺したところで、霞が尋ねてくる。どうやらまだ話は終わってないらしい。
「信幸さんって、もしかして片思いしている相手でも居るんですか?」
「は? なんだよ藪から棒に」
疑問符を顔に張り付かせ霞を見返す。 どういう経緯で今の台詞が出てきたのか理解できない。
「だって信幸さん、どんな人と付き合っても相手に対して真剣になれないんでしょ?」
「……ああ」
信幸は不承不承認める。今更嘘を言っても意味は無いだろう。
「でも、私の友達なんかもそうなんですけど、最初好きでなくても付き合っていく内に相手を好きになっちゃうってよくあるんですよ」
「まあ、そういうこともあるだろうな」
「でも、信幸さんにそんな兆候は一切無い。何故でしょう」
「……何故だろうな」
こんな質問を本人にするのは
「で、考えたんですけど、信幸さんには密かに想い続けている人が居て他の女の人の入り込む余地がないとか。違いますか」
今まで以上に興味津々といった顔で、身を乗り出してくる霞。
「秘めた想いって事は、もしかして決して表に出せない禁断の恋とかですか? アブノーマルな世界なんですか? めくるめく官能の日々なんですか?」
何やら色々とあぶない想像をしているようだが、霞の言葉は妙に信幸の心に引っかかった。
無論、禁断の恋だの、アブノーマルな世界だのではない。
(他に好きな人でも、か)
考えたことも無かった。 (居るのかな、そんなヒトが)
霞が言ったように今まで何人もの女と付き合ってきた信幸だが、それは全て向こうから告白してきたからだった。
信幸から告白して付き合ったことは一度も無い。
そもそも今まで付き合ってきた女達の事も、自分は本当に好きだったのだろうか?霞の言うように、仕方なく付き合ってただけじゃないのか?一人信幸は自問する。
しばらく真剣に考えていたところに霞が声を掛けてくる。
「え、もしかしてビンゴ?」
その声に信幸は現実に引き戻される。何故か霞は心底嫌そうな顔をしていた。
「まさか、信幸さんって実はこっちの人で、女の人と付き合ってるのはただのカムフラージュだとか?」
その手を怪しげにくねらせながら、恐る恐る霞が尋ねてくる。
「?……あっ」
最初何かと思った信幸だったが、その手の意味することを理解して危うく想像してしまいそうになる。 おぞましいその映像を、信幸は頭を振って追い出す。精神衛生上大変宜しくない。
「違う違う違う! 俺はいたってノーマルだから」
「えー、本当ですか?」
「本当だよ! 間違っても俺にその気は無い!!」
「ふーん。そこまで言うなら、そういう事にしといてあげます。でも、それじゃあやっぱり他に好きな人でも?」
改めてそう聞かれる。再び真剣に頭を巡らせてみるが案外答えは簡単に出てしまう。
チーズケーキを口に運びながら思索の結果を口に出す。
「好きな人は……やっぱ居ないかなあ」
と、その瞬間なぜか霞の顔に安堵が浮かぶ。そして今度は何かを決意するように真剣な表情を浮かべる。
「それじゃあ、今度の相手は私なんかどうですか?」
「はあ?」
「だーかーら。私と付き合ってみませんか?」
突然の申し出に耳を疑う信幸。咄嗟にマスターに視線を送るが、父親は娘の奇行にも全く興味が無いようだった。
「どうです? 自分で言うのもアレですけど、私だって結構もてるんですよ」
「ちょっ、くっ付くなよ」
むにゅ
「ほら、胸だってもう結構あるし、お父さんも信幸さんのこと気に入ってるし、言うこと無しですよ」
乗り出しながらまくし立てる霞。その勢いに少々辟易していると霞は声のトーンを変えて言った。
「それに」
じっと目を見つめてくる。吸い込まれそうな黒い瞳に自分の姿が映っている。いつの間にか自分の左手に重ねられた彼女の右手がやけに熱い。
「私だったら、そう簡単に別れてあげませんよ?」
「……!」
瞬間、今まで付き合ってきた女達の顔が頭をよぎる。自分から離れていく彼女達を、信幸は一度として追ったことが無かった。
自分の仕草が、視線が、言葉が気に入らないといって自分から離れていった女達。その背中に信幸は一言の言葉も掛けてはやらなかった。
そこにはなんの感傷も無く、なんの悲しみも無い。自分に背を向けた女達は、その時点で信幸にとってはすでに過去の一部でしかなかった。
「なっ、なんだっていきなりそんな、付き合うだなんて言い出すんだよ?」
渾然とした思考を振り払い、やっとそれだけを口にする。
「だって、信幸さん今他に好きな人いないんでしょう? だったら私と付き合っても問題ないでしょう?」
「でも、俺はどんな女にも本気になれないって、そう言ったのは霞ちゃんだろう。それなのになんで……」
「今言ったじゃないですか。私は他の人と違って簡単に別れようなんて思いませんよ。じっくりと時間を掛けて信幸さんの心を染めていきますから。それに、もし本当に他に好きな人が居たってかまいません。私を見つめてくれないのならそれでもいいです。私が信幸さんを見つめ続けますから」
「霞ちゃん……」
それきり、言葉が途切れて見詰め合ってしまう。 視線を霞から外す事が出来ない。身体中が麻痺している。
ギリシア神話に登場する、絶世の美女にして見たものを石化させる魔物メドゥーサ。今の霞は、まさにメドゥーサなのかもしれない。
そんな他愛も無い事を信幸はどこか遠いところで考える。 もしそうなら、自分は哀れにも魔物に魅了された愚か者なのだろうか。
一秒か、一分か、それとももっとか。視線を絡ませ動けなくなった二人を引き裂いたのは、天を突き刺す轟音だった。
「きゃっ」
突然の雷に霞は一瞬身体を怯ませる。その隙に信幸は左手を引っ込めると、視線も前に戻して、霞を見ないようにする。
そこで信幸は自分の身体の異変に始めて気付いた。背中を伝う汗と、張り裂けそうに早鐘を打ち鳴らす心臓に。
だから、そんな異変を気付かれぬよう、信幸はわざと冗談めかして言葉を紡ぐ。
「ばーか。雷怖がっているようなお子様が十年早いよ」
言って顔にも苦笑を浮かべる。 上手く表情を作れているかは自信が無かったが。
「あー! 本気にしていませんね!? 私は本気なんですよ!」 心配は杞憂だったらしい。さっきまでの雰囲気は何処へやら。年相応の声と表情で霞が言い返してくる。
そうだ、これでいいんだ。
「はいはい。じゃあ因数分解が解けるようになったら付き合ってやるよ」
「信幸さん、私が数学苦手なの知ってるでしょ」
何時の間にか普段通りに戻っていた霞とのやり取りを繰り返していると、やっと心臓が普段の落ち着きを取り戻す。
信幸は幾分冷えてしまったアールグレイとともに動揺も奥へと押し流す。
「降ってきたみたいだな」
そこにマスターの声が響く。
「……」
すっかり忘れていたが、この人は今のやり取りに口を挟もうとは考えなかったのだろうか?というか、今のは親に聞かせていいような会話か?
「あ、本当だ。結構強そうですね。夕立かな」
そんな信幸の内心を知る由も無い霞は平然と父親の声に言葉を返す。どうやら問題はないらしい。マスターの声に反応して、霞は窓の外に視線を移す。
信幸も視線を外に向けてみる。グレー色をした空から大粒の雨が降っていた。
さしたる時間もかからず雨は本降りとなり、歩道に響いていた足音が一気に遠ざかる。
カランコロン
再び鐘の音が店内に響き渡る。その音に反射的に顔を入り口へと向けると、雨宿りだろうか、慌てた調子で一人の女性が店内へと足を踏み入れていた。
「あ、お客さんだ。いらっしゃいませー。信幸さん、さっきの話はまだ終わってませんからね?」
「うるせー、さっさと仕事に戻れ」
「あはは、照れちゃって、かーわいい」
「んだとこら!」
「キャッ!」
伸びてきた信幸の手をさらっとかわしながら霞が客を案内するために席を立つ。
「っと、お騒がせしてすみません。えーと、お一人様ですね。カウンター席でよろしいですか」
「ええ」
そのまま霞に促されて席に着こうとしていた女性だったが、奥にいる信幸の姿に気付くと、その顔をじっと見つめてきた。
「?」
目が合ってしまい、咄嗟に視線をそらそうとした信幸だったが、向こうは尚も信幸の顔を見つめ続けてくる。
と、そのまま女性は信幸の座るほうに近づいてくる。
「えっと、……何か?」
信幸の問いを無視し、しばし信幸を観察していた女性だったが、おもむろに口を開く。
「ねえ、もしかしてあなた信幸じゃないの?」
「えっ、ええ。確か信幸ですけど、あなたは?」
突然尋ねられ、訝しげな表情をしながらもそう答える信幸。するとその女性は一瞬驚いた顔をした後、嬉しそうに信幸の隣に歩み寄っきた。
「うそっ、本当に信幸なんだ! あたしよあたし、昴よ。もしかして覚えてない?」
「昴……」
その名前と共に信幸の頭に蘇るものがある。色あせながらもはっきりと残っていた幼い日の記憶。
「もしかして、昴姉?」
セピア色の記憶と目の前の女性を見比べ信幸はそう声を出した。
「なーんだ、しっかり覚えてるじゃない。よかった、私だけ覚えてたら馬鹿みたいだもんね」
そういいながら、さっきまで霞が座っていた席に腰を下ろす昴。そんな彼女を霞が訝しげに見ている。
「信幸さん、お知り合いの方ですか?」
「あ、ああ。昔近所に住んでた昴姉。俺が小学校のときに引っ越してそれきりだったんだけど」
「今度こっちのほうに転勤になってね。で、そこでたまたま寄った喫茶店で懐かしい幼馴染の顔を見つけたってわけ」
マスターにコーヒーを注文しながら昴が信幸の言葉を繋ぐ。その長い髪は雨の所為で幾分濡れていた。
「しっかし信幸、見違えたわね〜」
椅子を回転させて昴は信幸の顔を覗き込む。
「昔は黒ぶち眼鏡かけてて身体だってもっとぽっちゃりしてたのに、随分かっこよくなっちゃって」
値踏みするように、その目は信幸をしっかりと見据えていた。注文のコーヒーが彼女の前に置かれる。
「私も声と名前を聞かなかったら絶対に気付かなかったわよ。一体どんな手品使ったのよあんた」
「どんなって……。別に眼鏡をコンタクトに変えて、後は少し痩せただけなんだけど。あ、背は随分と伸びたかな」
「ふ〜ん。じゃ元々素質はあったわけだ。損したなあ。あの時に手ぇ付けとけばこんなカッコいい彼氏が手に入ったのに」
微笑を浮かべながらそう告げる昴。再び、心臓が早鐘を打ち鳴らす。 瞬間、思わず昴の顔を見つめてしまった信幸だったが、既に昴の表情はいたずらっ子のそれに変化していた。
「やだ、本気にした? 冗談よ、じょうだん。いくら今カッコよくたって、あのチンチクリンのぽよんぽよんをどうこうしようなんて思わないわよ」
笑いながら言うと、昴は後ろで話を聞いていた霞に視線を向ける。不愉快そうな霞の表情には気付かないようだった。
「ねえあなた知ってる? こいつ昔はちびでデブでおまけにこんな眼鏡かけてたのよ。それでしょっちゅういじめられて私に泣きついてきてたの」
指で両目を囲い愉快そうにはなす昴。が、逆に信幸は慌てだす。
「ちょっ、何時の話してるんだよ昴姉っ!」
「何時って、いちいち覚えてないわよそんな事。あんた毎日毎日同じことしてたんだから」
はぐらかしているのか、それとも素で言っているのか、昴はそんな的外れな返事を返す。
「それともこの子に知られたくないの? 自分の恥ずかしい過去を」
「なっ!」
絶句している信幸を無視して、昴は霞に向き直る。
「ねえ、あなただって聞きたいでしょ。今じゃこんなすまし顔してる奴が昔どんなだったか」
「まてよ! なにもこんな所でそんな恥ずかしい話しなくてもいいだろ!」
慌てた調子で言い寄る信幸だったが、昴は聞く耳持たない様子だった。
「いいじゃない。どうせ昔の事なんだし。笑えるわよ〜。こいつの昔話」
しゃべる気満々といった風でそう告げる昴。だが、それに対する霞の返答えはハッキリしていた。
「聞きたくありません」
「え?」
その言葉は昴だけでなく信幸にも意外だった。 どうして?そんな意味を視線に込めて霞を見つめる。
自分に集まった二つの視線を受け流し、霞はもう一度告げた。
「別に聞きたくありません。信幸さんだって嫌がっているのに、そんな昔のことなんてどうでもいいじゃないですか」
昴に向かってそこまで一気に告げると、ポカンとした昴を無視して今度は信幸に向き合う。
「信幸さんも信幸さんです! 自分の過去を恥ずかしいなんて思っちゃいけません!」
お説教をするように、信幸にきつい口調でそう言い放つ。
「今のカッコいい信幸さんだって、その時のカッコ悪い信幸さんが居たから存在するんです。それを恥ずかしいなんて思っちゃいけません!」
「……お前、言ってること微妙に矛盾してないか?」
信幸は気圧されながらも、ぽつりそう呟くが無視される。
「だから、そんな昔の話はいいんです。今の信幸さんはカッコよくて運動も出来て頭も良くてそれに本当はとっても優しいんですから」
呆気にとられて霞の口上を聞いていた昴だったが、やがて大きく息をつくとニッコリと笑って言った。
「ふう……。そうね、あなたに昔の信幸を教えてもしょうがないわよね」
思いのほかあっさりと引き下がる。敵意丸出しの霞に対して、昴は霞をどこか愛しげに見つめる。
「それじゃ、雨も止んだみたいだし私はそろそろ失礼するわ。これから私、デートなのよ」
いつのまにか空になっていたコーヒーカップの隣に三枚の硬貨を置くと、彼女は立ち上がり、信幸の耳元で囁いた。
「いい子じゃない。ちゃんと大切にするのよ?」
「ちょっ、霞ちゃんとはそんなんじゃ!」
「じゃあね。美味しいコーヒーご馳走様」
信幸の弁明を聞き流し、すでに昴は外へと通じる扉に手を掛けていた。 三度鐘の音が店内に響き渡る。
「いったい何なんですかあの人は!」
昴の姿が見えなくなると、霞は昴への怒りを爆発させる。あれでも相当我慢していたらしい。
「俺の幼馴染。で、初恋の人、かなあ」
自分の注いでいるのが油だという自覚はあったが、それでも信幸は正直にそう語る。
「はあ? 自分の事あんなに馬鹿にした人のことが好きなんですか?もしかして信幸さん、マゾっけが…」
「そんな訳あるか! 今じゃない、昔の話だよ。昔の」
紅茶をスプーンでかき混ぜながらゆっくりと信幸は語り始める。
「昴姉の言ってた通り、俺は昔随分といじめられてたから。昴姉はその度に俺の事助けてくれてたんだよ」
あまりいい思い出とは言えない過去を、懐かしそうに振り返っていく。
「じゃあもしかして、今までずっとあの人のこと好きで、だからどんな人と付き合っても長続きしなかったんですか?」
「それは、どうだろう?そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない」
「はぐらかさないでください!」
「はぐらかしてなんかないよ」
そう言って心の中だけで続ける。
(実際、あれが初恋だったなんてたった今気付いたんだから)
でも、霞の言う通りかもしれない。気付かないだけで、自分はどこかでずっと昴の面影を捜し求めていたのかもしれなかった。
弱い自分をいつも守ってくれていた、初恋の人の面影を。
だとしたら、今まで随分と酷いことをしてきたものだ。自分を好きだといってくれた人達を、自分はちゃんと見つめてさえやらなかったのだから。
でも今、信幸は非常に晴れやかな気持ちだった。昴本人を目の前にしてそうと気付くことで、長い長い初恋が今、終焉を迎えたのだろう。
「虹が出ているな」
マスターの声に外を眺める。雨雲の隙間から顔を覗かせ始めた太陽が、鮮やかな七色の橋を形作っていた。
「あ、本当。私、虹なんて見るの久しぶりです」
今まで怒っていたのも忘れて、霞も窓に張り付いて外の虹を見つめる。
さっきの昴の言葉が頭のどこかに張り付いていて、そしてなによりその横顔がとても綺麗だったから、信幸はそっと呟いた。
「じゃあ雨も止んだみたいだし、これから二人でどこかへ出かけようか?」
「え?」
何を言われたのか分かってないのか、それとも単に聞き取れなかったのか。霞がきょとんと聞き返す。
そんな霞に信幸は少々恥ずかしげに言葉を紡ぐ。いざ意識してしまうと恥ずかしいものだと感じながら。
「これでも一応、デートの誘いなんだけど。それとも俺となんかじゃ嫌?」
ブンブンブン!音さえ聞こえてきそうな勢いで首を横に振ると霞は言った。
「そんな訳無いじゃないですか! さっきも言いましたけど、私は本気で信幸さんの事が好きなんですから」
勢いよくそれだけ言うと、彼女は身に着けていたエプロンを手早く外す。
「それじゃあ、着替えてきますから少し待っていて下さいね。あ、お父さん、今日はもういいよね?」
言うだけ言うと、霞は返事も聞かぬまま店の奥へ向かって駆け出していた。
取り残され、二人きりになった店内で信幸はマスターに告げた。
「すみません、少しの間娘さんをお借りします」
マスターは口の端を少し上げただけで、黙々とコップ磨きを続けていた。
ドタドタドタとけたたましい音が近づいてくる。
信幸は代金を置くとゆっくりと立ち上がり、外へと足を踏み出した。 遠く蝉の鳴き声が聞こえ、初夏の日差しが信幸の目に飛び込んでくる。
今年の夏はまだ、始まったばかりだった。
|