「ねえ連?」
後ろからの呼び掛ける声が連の耳に入る。今この部屋に入るのは連の他には部屋の持ち主である梓だけ。連が考えるまでもなく、それは梓の声だった。
「ん?」
振り返りもせず連は適当に聞き返す。目線はテレビ画面に向いたままだった。中国統一に向けての正念場、ここで失敗する事は許されなかった。
「出来たみたいなの」
「何が?」
「赤ちゃん」
「誰に」
「私に」
「誰の」
「連の」
備え付けられたスピーカーから英雄達の怒声と兵卒達の断末魔が聞こえてくる。やがてそれらが一段落すると、連の口からかるく溜め息が漏れる。
戦いは連の勝利で終わっていた。後はいくつかの小勢力を潰すだけ。まず負けることはないだろう。セーブしてから電源を切ると、連は梓に向き直った。頭の中を整理してからおもむろに口を開く。
「で、なんだって?」
…
……
…………
………………
「……と言うわけなんだ」
事のあらましを一気に喋り終わると、連は乾いた喉を潤す為に目の前に置かれたコーヒーを一気に飲み干す。味よりも、今はその冷たさが心地よかった。
「ふーん。そりゃ大変だなあ」
連の向かいに座った男、昌幸はさして興味無さそうに相づちを打つ。
「ふーんてお前、他人事だと思って……」
「いや、実際に他人事だし」
そう言って昌幸はカフェオレを口へ運ぶ。目の前の親友は幾分不満げな表情だった。
「大体お前、自業自得だろ? 二股なんか掛けてるから」
「お前がその台詞を言うか?」
「俺はお前とは違うよ。それは知ってるだろ?」
「うっ」
言葉を詰まらす連。
二人とも現在二人の女性と付き合っていたが、それぞれ多少事情は違っていた。
……他人から見ればどちらもろくでもない事に変わり無かったが。
「で、どうするんだお前は? ちゃんと責任取るのか?」
責任。その二文字が連に大きくのしかかる。出来れば放棄したいところだがそうもいかない。
「まあ手っ取り早いところだと、結婚か金か。結婚はともかく金なら別に大丈夫だろ? 産むにしても堕ろすにしても」
簡単にそう言ってくる昌幸。実際、連は金には全くと言っていいほど不自由していない。
資産家だった祖父から莫大な遺産を受け継いでいた連にとっては、手術代にしても養育費にしても端金にすぎなかった。
「そうなんだけどさあ……」
懐から取り出したマイセンに火を付けながら、こめかみにシワを寄せる連。
「……ふう。なんつうか、アレ見たら醒めちゃったんだよな。いきなり妊娠したなんて平然と言われて、次の台詞が『で、産むの? 堕ろすの?』だぞ? 正直引いたわ。で、そんな女に金払うのも癪でさ」
「金持ってるくせに相変わらず変な所でケチだな、お前。しかし、あの唯ちゃんがねえ……やっぱ母親になると変わるもんなんだなあ」
「……唯? なんでここで唯の名前が出てくるんだ?」
「あん? なんでって、今までずっとその話してただろ?」
「……唯じゃねえよ。俺は今まで梓の話をしてたんだよ」
「じゃあお前、一気に二人も孕ませたのかよ。大変だな、現役大学生にして二児のパパか」
「まてまてまてまてまて! だからなんで唯まで妊娠した事になってんだよ!」
仰け反らしていた身体を前に乗り出し、連が聞いてくる。テーブルに落ちた灰に昌幸が顔をしかめる。
「いや、本人がそう言ってたらしいし。美琴たちがこの前相談受けたんだよ。……って口止めされてたんだっけ。お前にはまだ話してないって」
バンッ!
両手を勢い良くテーブルにつくと連は立ち上がっていた。
「ワリい。用事が出来た」
「おう。ま、気楽にいけや」
昌幸の声を無視し、連はさっさと店を出ていってしまう。後には長いままの煙草が一本と飲みかけのコーヒーが残されていた。
コーヒーと一緒にその場に取り残された昌幸は、自分のカフェオレを口に含むと大きくため息をつく。
「ったく。めんどくさい連中だよな」
その言葉に無愛想な店主が苦笑いを浮かべていた。
店を出ると連は唯に携帯で連絡を取る。丁度家に居るようだったので、そのまま行く旨だけ伝えると連は電車に飛び乗った。
駅から程近く、唯の住むマンションはあった。預かっていたカードキーでマンションの中に入るとそのままエレベーターに飛び乗る。たかだか数十秒だったがゆっくりと上昇するエレベーターが連にはひどくもどかしく感じる。
やがて目的地で扉が開く。その扉をこじ開けるようにしながら連は早足で唯の部屋へと向かっていった。
「唯!」
ノック一つすることなくズカズカと部屋に踏み入っていく。そして奥のリビングの扉を開くところで逆に向こう側から扉が押し開けられる。
「あ、早かったね。今紅茶煎れるからちょっと待っててね」
にっこり笑って現れた部屋の主はそれだけ告げるとパタパタと足音を立てながらキッチンへ向かっていく。
「あ、ああ」
その笑顔に勢いを削がれた連は、おとなしくリビングの指定席に座り込む。少しして紅茶のいい香りが連の元にも届けられる。
「はい。丁度クッキーも焼いてたところなの。よかったら食べてみてね」
「あ、ああサンキュ」
言われてクッキーを一つ口に放り込む連。
「お、うまいなこのクッキー」
言いながら顔を綻ばせる。焼きたてのクッキーは非常に美味だった。
「よかった。今回はシナモンを入れてみたの。連、シナモン好きだったでしょう」
「おう。いや本当に美味いなこれ」
差し出されたクッキーを次々と口へと運ぶ連。唯はそれを幸せそうな表情で眺めていた。
「おかわりいる? 沢山作ったからまだ沢山あるよ」
「わりいな。貰うわ」
「はーい」
差し出された空の皿を持って足取りも軽やかにキッチンへと向かう唯。
やがて運ばれてきたクッキーも連は次々に平らげていく。
「ふう。ごちそうさま……って違うだろ!」
二皿目のクッキーも平らげ、紅茶で喉を潤したところで連はやっと当初の目的を思い出す。
随分と長いノリ突っ込みだった。
「え、違うの? じゃあ……こんな明るいウチからなんて、そんな……」
何やら勝手に勘違いして頬を赤らめ、上目遣いに連の顔を覗き込んでくる唯。
その表情に思わず手をのばしていた連だったが、次の瞬間はっとしてその手を引っ込める。
「それも違う! 俺はお前に確かめたいことがあってここに来たんだ」
そういって姿勢を正した連は正面から唯を見つめる。唯の方も連の真剣さに気付いたのか真面目な顔をして連の前に姿勢を正す。
「お前、妊娠したって本当か?」
「! どうしてそれを!?」
「昌幸に聞いた。で、お前本当に妊娠してるのか?」
唯は俯き、ティーカップを両手で握りながら暫らく沈黙してきたが、やがてぽつぽつと語りだす。
「まだはっきりとは判らないの。ただ、最近くるのが遅れてて……それで美琴と更紗に相談したんだけど……」
「……なんで最初に俺に相談しなかったんだよ。俺じゃそんなに頼りなかったか?」
「そんな事ないよ! でも……もし本当に妊娠してたりしたら、連に迷惑かけるんじゃないかと思って……」
ぎゅっと唇を噛んで呟く唯。
「それで、連に嫌われたりしたらって考えたら言い出せなくて。ごめんなさい!」
涙さえ浮かべながら頭を下げる唯。そんな唯に連は掛ける言葉が無かった。
自分に対する嫌悪感が沸き上がる。こんなにも思い詰めていた唯の事など露知らず、自分は昨日も別の女のベッドの上に居たのだ。
と、その女の顔が頭に浮かぶ。奇しくも二人の反応の違いを浮き彫りにさせた今回の出来事はまるで踏絵のように連には思えた。
「俺が唯を嫌ったりするわけないだろ。今度さ、二人で病院行ってみようぜ」
いつのまにか唯の隣に移っていた連が唯の肩を抱き寄せながら囁く。
「それでさ、こんな時に言うのもどうかと思うんだけど……」
自分が当事者の時には見えないものも、一歩身体を引いて部外者として眺めてみるとよく見える事は多々ある。恋愛などその際たるものだった。
ただ、今回の場合多少趣が違う事を昌幸は理解せざるをえなかった。
「しかし凄いよなあ、唯ちゃんは」
いつか連と来た喫茶店で、今日はその婚約者の向かいに座り昌幸はぽつり呟く。
「結局妊娠は勘違いだったんだろ。なのに連の奴すっかり変わっちまって。全部唯ちゃんの計画通りじゃん」
「計画だなんて、人聞き悪いよ。それに私、そんなに大した事はしてないし」
笑いながら答える唯。少し連が哀れに思えた。
昌幸は連が唯に対してプロポーズまでしたと聞いた。
しかし、そのプロポーズにしても連の意志の割合はどの程度なのだろうと昌幸は勘ぐってしまう。
連は唯の掌の上で踊らされているに過ぎなかった。連が気付いていなかっただけで唯は連の二股などお見通しだったのだ。普通の女なら気付いた時点で大騒ぎするところだが、唯は動じなかった。
彼女は梓の元を訪れると自分も連と付き合ってる事を暴露し、激高する梓に向かって囁いた。
「どうせ別れるなら後腐れなくお金も貰えた方がいいでしょ?」
唯の言う通りに妊娠を捏ち上げた梓は、あの後何も知らない連から多額の手切金を受け取り唯に向かって感謝の言葉すら投げ掛けて去っていった。
「しかし『連に私が妊娠してるってそれとなく伝えて』なんていきなり言われた時は何事かと思ったけどな。まさかこんな事になるなんて予想も出来なかったよ」
そこまで言って気付く。今回の出来事は考えてみれば誰も不幸にはなっていない。みんなが笑顔で今を生きている。だが、それでも昌幸には唯の些細な奸計は好ましいものには思えなかった。
「その事は本当に感謝しているわ。それじゃあ、そろそろ時間だから私行くね」
「ああ。連によろしくな」
去っていく背中に昌幸はふと思いついて一言投げ掛ける。
「なあ、今幸せか?」
その声に振り返った彼女は最初キョトンとしていたが、やがてその顔に笑顔を咲かせると嬉しそうに語った。
「ええ、もちろん。世界で一番大好きな人からずっと一緒にいようって言われたんだから。あの時は今まで生きてきた中で二番目に幸せな瞬間だったわ」
「そっか。そりゃそうだよな。引き止めて悪かったな」
「ううん。それじゃ今度こそバイバイ」
やがて唯が店を出てその背中が見えなくなった後、昌幸は携帯を取り出し一番馴染みの番号を呼び出した。
「ああ、俺だけど。更紗もそこに居るのか。それじゃこれからそっち行ってもいいか? いや、別に用は無いんだけど、何となく二人の顔を見たくなってな。それともこれから三人でどこか行くか?」
昌幸が窓から空に目を向けると、そこには雲一つ無い青空が広がっていた。
「別に他意なんてないさ。ただ、今はお前達と一緒に居たい気分なんだ」
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