マスオさんの家庭の事情 酒と煙草と甲子園 恋愛ゲーム 株と競馬とギャンブルと 正しい会社経営 不健康のススメ  資本主義の大原則

マスオさんの家庭の事情
 なかなか面白い事を書いてある本に出会いました。その内容はずばり、

「マスオさんはセックスレスである」

 というものでした。
 念のために言っておきますが、マスオさんとは某国民的漫画(アニメ)の婿養子の事です。
 なるほど、確かに婿養子という立場に加え平屋建ての日本家屋ではなかなか事に及びにくいのかもしれません。しかし、この文の著者はそれとは別にこの漫画に漂う禁欲的な雰囲気に目を付けます。
 というのも、件のマスオさん、少しでも他の女性に対し目を向けようとすると直ぐに天罰が下るという星の下に生まれています。
 美人の後ろ姿に目を奪われれば振り返った顔には髭があり、風にあおられて露になったスカートの中身に目を奪われれば、直後に彼を不幸が襲います。
 彼は徹底的に男性としての欲望を押さえ込まれていくのです。まるでそれが禁忌であるかのように。
 ある時、サザエと夫婦二人で歩いていたマスオさんの前に犬を連れた美人が通ります。そこに通り掛かる一人の男性。犬を可愛がる男性を見てマスオさんは言います。「あれは犬を口実に女性を口説こうとしているのさ」
 至極当然な思考です。しかしサザエはそれに異を唱えます。世の中そんな人ばかりじゃないと。
 やがて男性は犬を撫でただけでその場を去ります。それを見てサザエは我が意を得たりとふんぞり返り、マスオさんは自らを恥じ入ります。「偶然にも」現れた奇特な一人の男性によってまたしてもマスオさんは押さえ込まれる事になります。

 確かにこれらの事を考えればマスオさんの夫婦生活が皆無であっても不思議ではありません。
 欲望を徹底的に押さえ込まれ、家に帰っても居るのはネグリジェさえ着た事の無い色気の欠けらもない嫁。一児をもうけている二人ですが、その性格から考えて恐らくは正常位しか経験した事が無いのでしょう。嫁は快楽としてのセックスなど思考の外である事は想像に難くありません。
何故マスオさんは浮気をしないのでしょうか。重度のインポテンツなのかそれとも真性の包茎なのか、その理由は分かりません。
 しかし、マスオさんがマスオさんである理由は婿養子云々という事では無く、男性としての自分を殺されながら浮気一つ出来ないその情けなさにあるのではないでしょうか。
 そういえばこの漫画の作者は女性でしたね。真面目に働き、妻に文句も言えず浮気も出来ないマスオさんという人格は一部の女性の理想なのかもしれません。

 追記:書いた後調べたらなんとマスオさんは養子ではないとの事。初めて知りました……



酒と煙草と甲子園
 春の選抜出場が決まっていた駒大苫小牧野球部、三年の部員が飲酒喫煙している所を補導されて結局出場辞退だそうです。
 なんていうかまあ、苫小牧の野球部員には同情します。
 春の選抜とは関係ない三年生の不祥事でとかそれ以前に、高校生が酒飲んで煙草ふかしたぐらいでガタガタ言うなと。
 普通酒ぐらい飲みますよ十八にもなれば。私なんか中学生の部活の打ち上げを居酒屋でやりましたし。馬鹿正直に二十歳になってから酒と煙草始める奴なんてめったに居ません。飲む奴は二十歳以前から飲んでるし、飲まない奴は二十歳過ぎても飲みませんよ大抵は。それで酔っ払って暴れ経ってんなら話は別ですが、普通に酒を飲んでいたぐらいで鬼の首でも取ったかのようにギャーギャー騒ぐというのはいかにも大人気ないです。
 警察が居酒屋で補導したと言うことは、どこかの馬鹿な大人が飲んでいるのが苫小牧の野球部員だと知って通報したんでしょうね。恐ろしく品性下劣な奴です。きっと日の光を浴びる苫小牧野球部員に嫉妬した人生裏街道驀進中の負け犬の仕業でしょう。通報した男は苫小牧の甲子園辞退を知ってさぞや喜んだ事でしょう。ざまあみやがれと愉悦に浸りながら。当然です、それが目的だったのですから。この陰陰気なサディストが警察に通報した動機を考えるに間違っても正義感などからではありませんからね。
 もし本当に未成年の飲酒を純粋に咎めたかったのだとしたらその場で彼らに言えばよかったのです。「お前ら苫小牧の野球部だろ。こんな所で酒飲んでるの見つかったら後輩たちに迷惑かかるぞ。見なかったことにするから早く帰り」そんな風に嗜めておけばよかったのです。そうせずに警察に通報したなど、苫小牧の甲子園出場を妬んでの事だとしか考えられません。
 大体、不祥事などと言ってもどこぞのラグビー部が集団レイプ事件起こしたのとは訳が違いますからね。二十歳は酒飲んでもよくて十八歳は酒飲んではいけない、などという何の科学的根拠も、ついでに罰則すら無い法律はそこまでして遵守されるべきものなのでしょうか。
 前のダルビッシュの時も同じですが、関係ない人間が小賢しく騒ぎすぎです。高校生なのだから酒の一杯も呑んで教師や親に小突かれる経験の一つや二つあってもいいのではないでしょうか。
 拳骨の一つもかまして次の日にはきっぱりと忘れてやる。初犯ならそれくらいでいいのではないかと思う私は甘すぎるのでしょうか?



恋愛ゲーム
 非科学的な事柄というのは、つまりは科学で解明出来ない、化学式を打ち立てられない事柄の事です。
 科学そのものが万能であるか否かはさて置き、科学を扱う人間は万能で無い以上実際に扱われる科学は決して万能ではありません。
 現在では普通に学校で習う分子や原子などの存在も、科学的に定説として確立されたのは二十世紀に入ってからで、十九世紀にはまだその存在はマナだのエーテルだのといったファンタジーRPGに出てくる物質と立場的には大差無かった訳です。
 キリスト教に支配された中世においてガリレオは異端視され、現在においてもキリスト教原理主義者の支配するアメリカの一部では進化論などが否定されている事は有名な話。(まあ、私も進化論には否定的だったりしますが)科学は宗教の下に位置し、その枠を超えることは許されなかった訳です。
 で、何が言いたいかといいますと、ガリレオでさえ非科学的と否定の対象になるというのに、よく「永遠の愛」などという非科学的な事柄を恥かしげも無く真顔で言えるものだなあと。
 人間の脳がコンピュータに比べて圧倒的に優れているのは「忘れる」という事です。記憶量や計算速度では決してコンピュータに太刀打ち出来ない人間の脳ですが、この点においての性能は少なくとも現在のコンピュータに大きく勝る点です。
 受験勉強などで、方程式や単語スペルの暗記に頭を悩ませた経験のある人にとってみれば「何を馬鹿な」と思うかも知れませんが、我々は知らず知らずのうちにこの「忘れる」という脳の機能に助けられています。例えば失恋の記憶。振られた直後に受けた胸を締め付けられるような辛い記憶も時が経てばやがて薄れ消えていきます。失恋した、という記憶は残っていてもその時に受けた胸の痛みは過去の物となり、だからこそ振り返ったときに過去の思い出として見つめることが出来るようになるのです。
 しかし忘れ去るのは失恋の記憶だけではありません。かつては燃える様に恋焦がれた激しい情熱も時間が過ぎればやがて消え去り過去のものとなります。人間が人間である以上それは仕方の無いことなのです。「愛すまいとするが意のままにならなかったように、永遠に愛そうとしても意のままにならない」のです。

 しかし、「世界の中心で愛をさけぶ」だの「冬のソナタ」だのあたりからでしょうか、永遠の愛などといったものがもてはやされ、世間が純愛ブームに沸くようになったのは。(そもそも、永遠の愛と純愛は全く関係ないと思うのですがそれはさておき)
 私にはギャグにしか見えず笑うことはあっても感動する事などありえないと断言出来る前述の二作品ですが、世間の評価は殊更に高く、二匹目三匹目の鰌を狙い似たような作品が出てくる出てくる。というか、やたらめったら純愛って言葉を使いたがるんですよね。下手すると「あいのり」あたりまで純愛呼ばわりされてますから。
 そもそもこの永遠の愛、ギャルゲーなどでは非常に多く見られたものでした。というかそればっかりです。
 ギャルゲーの根本は架空恋愛を体験する事であり、主人公(プレイヤー)だけを永遠に愛してくれるヒロインが求められたからです。
 しかし、このギャルゲーにおける永遠の愛は一方的な物です。多くの場合プレイヤーは複数いるヒロインから一人を選ぶ訳ですが、そのヒロインを攻略し終えれば今度は次のヒロインとの恋愛が始まります。しかし、選ばれなかったヒロインが他の男性キャラクターと恋愛関係になる事は殆どの作品の場合ありえません。主人公以外の男性と付き合う女性キャラは最初から攻略不可能キャラとしてヒロイン達とは立場を異にするのが普通です。主人公は複数のヒロインとの恋愛の可能性を持っていてもヒロイン側にある可能性は主人公と恋愛するか否か二択だけ。要するにギャルゲーにおける永遠の愛はヒロインだけが持ち合わせている要素にすぎないのです。
 ギャルゲーとは要するに男にとって都合が良いファンタジーです。自分だけを永遠に愛してくれる女性と、自分にある複数の女性との可能性。この二つを軸とした。
 そして、ギャルゲーが男にとっての恋愛ファンタジーなら、近年の純愛ブームというのは要は女にとってのファンタジーです。
 「世界の中心で愛をさけぶ」などが象徴的でしょう。死んでしまった昔の恋人を愛し続ける主人公。その姿に感動するというのは女性の独占欲の表れです。いつまでも、死んでから後も恋人の心を支配していたいという。「男は自分が最初の相手であることを女に望み、女は自分が最後の相手であることを男に望む」とはよく言ったものです。
 妄想に過ぎないという意味では純愛ブームもギャルゲーも変わりありません。妄想を妄想と割り切っているか、空想を現実に照らし合わせて現実でも求めようとしているかの違いはあるかもしれませんが。

 しかしまあ、「世界の中心で愛をさけぶ」のようにさっさと死んでしまうというのは永遠ではない人間の愛を多少なりとも永遠に近づけるには良い方法なのかもしれません。
 女性としての美しさを失い薄汚く老いる前に死んでしまえば、恋人の思い出の中に残るのは若く、そして多少脚色されて美しい姿の自分なのですから



株と競馬とギャンブルと
 最近株なんぞを始めてみました。競馬の代用品として。
 今現在私の住んでいる近くには競馬場が無いもので。最近は携帯なんかからでも馬券は買えるのですが(というか実際買っていますが)、やはり生でレースを見ないとどうにも物足りなくて。で、その憂さ晴らし(?)に株に手を出した、と。ちなみに最初に買った株はソフマップだったり。まあどうでもいいですが。
 で、株に関して少し気になったことが一つ。株を始めるにあたって知人で株をやっている人にアドバイスを求めたんですが、

 「……いやあ、競馬の代わりに株でも始めようと思いまして」

 「株はギャンブルじゃねえ!」

 ……えらく怒られました。なんかその後株は投資であってギャンブルではないという話を延々と聞かされたのですが、私にはよくわかりません。株と競馬にそんなに違いってあるのでしょか?
 どちらも勝ち馬に賭けるだけで結果が出るのが遅いか早いかの違いしか無い気がするんですが。
 株はその会社の将来性を色々と調べて投資するとか言ってましたが、競馬だって馬のデータを色々と詳細に調べますからね。(人によって違いはありますが)
 ちなみに、私は馬券を買う際血統を重視するので、馬の血統図が頭の中にびっしりと入っていたりします。世間でも騒がれていたディープインパクトなら、父がサンデーサイレンスで父の父がヘイローでそのまた父がヘイルトゥリーズン。母がウインドインハーヘアで母の父がアルザオ。全兄にブラックタイド半姉にレディブロンド。といった具合に。(大概の人はこんな事書かれても意味不明でしょうが)
 どうも世間では理解されていないようですが、馬券を買う人はかなりの確率で並々ならぬ勉強家です。……その情熱を他の事に生かせよ! って言いたくなると思いますがそれは言わないお約束♪

 話がそれました。株の話でしたね。



あれはもう飽きました(マテ



 いや、やっぱスピード感が足りないというか、爽快感が無いというか。(二度も言うな)なんかこう気分が盛り上がらなくて。ライブドアショックで出来た絶好の買い時を証券会社の対応が遅くて逃してしまったってのもありますが。

 という訳で競馬場への望郷が強まる今日この頃。春になって桜が咲いたらまた競馬場に行こうと思います。



正しい会社経営
 ライブドアは近鉄買収で知名度を一気に全国区に押し上げましたが、東横インも今回の事件で一気に名前を広げたと言えるんでしょうかね。(正直、東横インが現在どの程度の知名度なのかよくわかりません)
 なんでも障害者用の施設を不当に撤去していたとかでえらい批判を浴びていますが、そんなに騒ぐ程の事でしょうか?
 東横インの社長、最初の記者会見で「このぐらいの事でガタガタ騒ぐな」見たいな事を言っていましたがあれが彼の偽らざる本心だと思います。私も同じ立場ならそう思いますから。
 どう考えたってあれが正論ですよ。年に何度も使わないような障害者の為に部屋を空けておくなんて非効率ですからね。ホテルなんて部屋が空いている=赤字が出る、なんですから。ただでさえ不景気なのに。
 しかも障害者用の施設を作ることを定めているのは、法律ではなくなんら罰則の無い法令。従う理由がありません。
 東横インの社長、次の記者会見で平謝りでしたが、済まなかったなんてきっと思っていません。面倒くさいから取り敢えず謝れって感じでしょう。私も同じ立場ならそう思いますから。

 なんか障害者の団体が「(一連の事件は)障害者の人権を軽視したもので許し難い」とかなんとか言ってましたが、障害者の人権を軽視するのは東横インがビジネスをしている以上当然だと思います。何も彼の会社はボランティアや慈善事業でホテル経営をしているわけではないのですから。
 障害者が世間から爪弾きにされ蔑まれるのは当然の事です。そういった事を防ぐのは国の役目であり、一企業の仕事ではありません。何よりもまず利益を優先した東横インの行動は決して間違ってはおらず、その事は東横インが今回の事件でボイコットを受けるなどの致命的な被害を蒙っていない事からも明確です。
 それと今回の事件、横浜市長がえらくご立腹でしたが、問題なのは行政側でしょう。
 各種リサイクル法案の時も同じ事を思いましたが、違反者を取り締まる(罰則を与える)などという方法を取っているからそこから逃れようとする輩が現れるのです。
 そうではなく、例えば今回の事件なら「障害者用施設を設置したホテルには行政が補助金を出す」という風にすれば今回のような事にはならなかったはずです。リサイクル法にしても、捨てる人間に金を要求するのではなく、捨てる時に国が金を出すようにすれば不法投棄はかなりの割合で減るはずです。
 そうしないのは無論金銭的な理由なのでしょうが、金銭的な理由で出来ないというのであれば今回の東横インとまったく同じ理由です。
 どうして行政に今回の東横インを責める事が出来るでしょうか。
 まあそんな事を言ったところで、人以上に人権が大切な善良なマスコミや政治家のみなさんには届かない事でしょうが。




不健康のススメ
 何時の頃からか始まった健康ブーム。現在ではすでに「ブーム」などと言えないほどに世間に浸透してしまっています。サプリメントや健康食品。漢方に温泉、果ては怪しい深夜の通販グッズまで。関連(便乗)商品挙げればきりがありませんし、みのもんたがお昼に「身体にいいんです」と宣伝した食材(ゴマだったり黒酢だったり赤ワインだったり)が午後に世の奥様方によって買い占められるというのは有名な話です。
 私の周りなんかでも健康の為にジョギングをしているのだの、一日の栄養摂取がどうのだの言って盛んに人に健康の押し売りをしてきやがる野郎がいたりします。
 なんていうか、こういう連中を見るにつけ「お前ら何の為に健康になろうとしてるの」って突っ込みたくなります。
 健康になるなんていうのは本来手段であって目的ではないでしょうに。健康になって長生きして、そしてお前ら何するの?何かやりたいことでもあるの?思わずそう問いたくなります。
 スポーツ選手が自分の身体に気を使うというのは十分に理解出来ますが、一日中食っちゃ寝食っちゃ寝して出来上がった野豚のような身体を揺らした中年主婦がみのもんたに踊らされ「健康! 健康!」叫ぶ姿は非常に滑稽です。健康になんてしがみ付かずさっさと死んだほうが世のため人のためでしょうに。
 長生きする事がそんなに重要なんでしょうか。何も目的の無い人間がだらだらと生き続けたところで老害を撒き散らすだけです。別にわざと早く死ぬ事も無いでしょうが、必要以上に生にしがみ付く姿はどうしても醜く感じられます。
 (学校教育の所為もあるんでしょうかね。戦争批判が高じて、とにかく死ぬ事を否定し、自分の為に生き長らえる事を推奨していますからね。人の死に様には生き様以上に人の心に訴えかけるものがあると思うのですが。)
 
 もし、何の目的も無くただ健康であることを目的として健康志向にに走っているのだとしたら、そんなものは今すぐやめて不健康を推進する事私はお勧めします。
 不健康である事のどんなに幸せな事か。美味い料理と美味い酒を思う存分楽しみ、寝ることも忘れ友人たちと夜の街を存分に満喫する。健康であろうとしたら絶対に知りえない楽しさがそこにはあります。本の数十年長くこの世に居る為だけにその楽しみを放棄する事のどんなに愚かしいことでしょう。
 そもそもどんなに健康であろうとしたところで、明日交通事故にあって死んでしまう可能性は否定出来ないのです。だとしたら明日を不安がって今日を楽しもうとしない健康志向に、一体どんな価値があるというのでしょうか。

 一説には、これから日本人の平均寿命はどんどんと短くなっていくとも言います。そうなった時、現在の健康ブームはさらに過熱するのでしょう。何のために健康になるのか、どうして健康でなければならないのか。その事を誰もが忘れてしまうほどに。
もしその渦中に自分がいた時、自分は冷静でいられるか、それだけが心配です。行き過ぎた健康志向は滑稽でしかありえず、決して人に誇れることではありませんから。

 ある詩人の言葉

「ボクサーはリングの上で死に、詩人は書きながら死に、サラブレッドは走りながら死ぬのがいちばん誇り高いのだと思いながら、私は健康のために、ときどきランニングしたりしているのを恥かしく思っているのである。」




資本主義の大原則

 結局は需要と供給の問題なんでしょうかね。CLANNADのファンディスク(?)智代アフターのシナリオを知って思いました。
 関係ないけど智代アフター、買わなかったことを少し後悔しています。面白いか否かは端に置いておくとして、取り敢えずプレイすれば色々とネタになりそうな雰囲気だったので(CLANNAD自体同じ動機で買いましたが)
 尚、以下は智代アフターのネタばれになる可能性があるので未プレイの方はご注意。
 


 私が智代アフターを買わなかった最大の理由はシナリオのワンパターンさにあります。そう、今までのKEy作品のご多分に漏れず、智代アフターも人が死ぬ話だったのです。
 もうね、いい加減に違うネタは無いのかと。
 そりゃ確かに主人公が死ぬというのは奇を衒ったかもしれませんが、所詮付け焼刃の印象です。正直「あー、はいはい。また殺すのね」そんな感じで感動も糞もありません。というか、手抜き以外のなんだというのでしょうか?ある程度感情移入させといて殺せば、そりゃ涙腺も緩められます。
 ですがまあ、世間では私のような意見はマイノリティな訳で。CLANNADほどではないにしろ、「感動した」という声が作品の大勢を占めています。
 そしてそれゆえに、KEyは人を殺す話を作りこれからも作り続けていくのでしょう。
 ゲーム作りがビジネスである以上、「売れる」というのは聖書やコーランの一文にも匹敵しますからね。ワンパターンであろうがどうだろうが、「売れる」という絶対的な正義をKEyは手にしています。
 まあ、そういった事は別にKEyに限ったことでもないですし。有名ところではCIRCUSなども同類でしょう。同じ作品を手を変え品を買え発売し続けるそのスタイルは曲芸商法などと言われ蔑まれていますが、それでもスタイルを変えないのは、それが商売として成り立っているからでしょう。絵だけに縋った作品を作り続けるオーガストあたりも同類でしょうか。

結局、ユーザーがメーカーに甘いのかもしれませんね。自分のことは棚に置き、そんな事を思ってしまいます。
以前CLANNAD不買運動なるものが巻き起こっていましたが、あのような動きも業界の成熟を促すという意味で価値があるのかもしれません。


追記:どうでもいいですが、CIRCUSにはオレンジレンジと同じ臭いを感じ取ってしまいます。別にCIRCUSの作品を貶すわけではないですが、どうも両者ともアーティストとかクリエイターとかいう言葉と程遠いくせにそう呼ばれている点が……

うにゃ〜