「いつか、届く、あの空に。」応援中!

『遥かに仰ぎ、麗しの』応援バナー

 BBS戯言ゲーム批評

ブログLinkメール小説

異邦人の停留所

リンクに「魁!!漢塾!!」様追加。


ゲーム批評に「戦国ランス」「遥かに仰ぎ、麗しの」を追加。

三国志大戦2.NETチーム結成しました。
名前はバーベナ学園。加入者募集中ですので、三国志大戦プレイしている方は是非。



拍手レス
>シナリオ云々ではなく、キャラ萌え重視なら萌えゲーだと思うのですがどうでしょう?
>そういう意味では、D・Cは萌えでKEY作品は萌えではないと思いますな。KEYはキャラが感動のための記号にしか見えません

多分そちらの方が世間における正しい認識だと思います。私の考え方はかなり特殊だと思うので。
D.C.は音夢・さくらシナリオさえなければ私も萌えゲー判定していたと思います。

>ランスの敵国行動中の待ち時間はctrlキーで早送りできますよ?

ははは、はっはっはっはあーっはっはっはっは!
……泣いていいですか?


戦国ランスに出てくる武将の元ネタ一覧を創ろうとしたのですが……。
思ったよりしんどいですね。(今、こんな感じ
途中でめんどくさくなって放置する可能性大。




萌えゲーの定義
 ユーザーにとっての萌えゲーってなんでしょう?
 ふと、そんな疑問に駆られたのは「遥かに仰ぎ、麗しの」の事を萌えゲーと評しているレビューを見かけたからです。私はプレイしている最中もプレイし終わった後も、かにしのを微塵も萌えゲーだと認識していなかったので。
 考えて見れば私も安易に萌えゲーという言葉を使っていましたがそれが具体的にはどんな作品をさすのが明確な答えを持っていませんでした。なので萌えゲーとは何か、ちょっとここで検証してみたいと思います。
 先ず私がプレイした中で萌えゲーだと思っている作品を挙げてみたいと思います。
明確に萌えゲーだと思う物
・月は東に日は西に
・Canvas1&2
・はぴねす!
・ToHeart2
・Piaキャロットへようこそ!!G.O.

どちらかと言えば萌えゲーに属すと思う物
・SHUFFLE!
・みずいろ
・ラムネ
・Really?Really!

 逆に、先に挙げたかにしのやD.C.などは萌えゲーと言われる事が多いですが個人的にはそう呼ばれる事に違和感を感じてしまいます。

 で、こうして具体名を挙げてみるとなんとなく私の定義する萌えゲー特徴が掴めて来た気がします。
 まず、「萌え」という要素がある事。これは大前提ですね。CGが一定以上華美で魅力的。且つ、ヒロインに極端な「毒」が無い事(下級生2とか)。ヒロインが主人公に媚びている作品とも言い変えられるかもしれません。
 そしてアクションやSLGなどのゲーム要素が無い事。アリスソフトの作品を萌えゲーと呼ぶ人は見た事ありませんからね。
 最後にテキスト、シナリオが脆弱な事。これに尽きるでしょう。いくら萌え要素があってもシナリオに優秀なものがあればそちらに目が行ってしまい「萌え」という要素はただの彩へと変化してしまいます。

 要するに蔑視用語なんでしょうね、私にとっての「萌えゲー」は。
 萌えという要素はある。だけどゲームとしても楽しめないし、シナリオも陳腐。それだけしか取り柄が無いから仕方なく「萌え」に価値を見出す、と。
 逆にかにしのやD.C.はシナリオに見るべき物があったから萌えゲーと呼ぶ事が憚られたんだと思います。
 萌えがあるから辛うじて許されるクソゲー一歩手前の作品。私が萌えゲーという言葉を使っていたらそう受け取っておいて下さい。

 まあ、世間一般から見たら、かにしのも水夏もFateも群青の空を越えてもみんな萌えゲーなんでしょうが。




女か虎か
 スタジアムには大勢の観客がひしめいている。
 競技場には二つの檻があり、その中に入っているのが、片方は美女であり、片方は虎であるらしい。
 しかし、檻の入口は覆われていて中は見えない。
 一人の若者が、観衆に見守られどちらかの檻を開けなければならない状況に置かれている。もし、虎の檻を開ければ、若者は虎に食われて死んでしまうが、美女の檻を開ければめでたく結婚できる。というゲームである。

 若者は一瞬ちらりとスタンドに目をやる。

 スタンドには王と王女が並んで座っている。王女と若者とは恋仲であったのだが、それを王に発見されて、この死のゲームの生贄にされたのである。
 若者は救いを求めるようにして、王女を見やる。王女は、どっちの檻に虎が入っているかを知っている。若者の命を救ってやることの出来る立場にある唯一の人間である。
 若者は、王女にサインを求める。王女は、無表情にサインを送る。そこで、若者はためらう。
 王女は、自分の恋人を他の美女に奪られてまで命を救ってやろうと思ったであろうか? それとも、自分たちの恋の思い出を守るために、死を選ばせようとするであろうか? それは、若者にとっても謎である。若者は一つの檻に近づいてゆく。

 さて、若者は王女のサインしてくれた檻を開けるであろうか。それとも「もう一つの檻」を開けるであろうか?



 衛宮士郎は迷わずに王女のサインした檻を開けた。王女を疑う事が出来なかったから。

 滝沢司も迷うことなく王女のサインした檻を開けた。王女の事を疑わなかったし、彼にとって重要なのは目の前の檻ではなく、どうすれば王女と一緒になれるかだったから。

 鳴海孝之は長い間迷い、結局王女のサインした檻を開けた。もう一方の檻を開ける事は王女への背信であり、たとえ生き残ったとしても王女に合わせる顔がなかったから。



 えらく哲学的な命題とエロゲを結びつけて考えてしまう自分はどうかと思います。
 三人の行動に関しては異論もあるんでしょうが私のイメージだとこんな感じです。どうでしょう?
 これ、逆に女性側の視点から考えても面白そうですね。三人が開けた先にいるのは美女か虎か。王女が誰かによっても代わってきますから。

拍手レス

>サインとは逆の檻を開けるタイプの主人公はいるんでしょうかね?

そういうタイプは主人公にならない気が……。
でも、孝之の場合、相手が水月だったら隙をついて逆を選んでいそう。




アニメSHUFFLE!回顧録
 長らくHDの肥やしと化していたアニメ版SHUFFLE!をやっと見終わりました。(と言っても後半部分だけですが)
 事前に仕入れた情報でメインヒロインは(何故か)亜沙だと知っていて、「あ〜、本当に亜沙がヒロインなんだ」なんて思いながら見ていたんですが。


……

…………

………………


 これ、メインヒロイン亜沙じゃないよね?
 いや、確かに後半はゲームの亜沙ルートを踏襲しているしラストも主人公は亜沙と結ばれる訳だけど、これ、メインヒロインは亜沙じゃなくて楓の方でしょう。
 アニメ版では後半、主人公は亜沙と付き合う事になりゲームと同様、自らの魔力の所為で亜沙が体調を崩し、魔力を使わせる為に主人公が手首を切るという展開になる訳ですが、途中に頻出する亜沙と主人公がいちゃつくシーンの言い様の無い薄ら寒さは間違ってもメインヒロインのそれとは言えないと思います。

 で、その薄ら寒さの出所は言うまでも無く楓な訳で。

 後半、主人公は亜沙と付き合う事になって楓を省みなくなり、その結果いい具合に壊れていく楓。目から光は失われ、ただ只管主人公の帰りを待ち続け、空の鍋をお玉で回し続ける。さらに回想される楓と主人公の過去の因縁、と言うか主人公を殺そうとする幼い楓。壊れていく楓に気付かず亜沙と蜜月を過ごす主人公の外道振りは筆舌に尽し難く、そんな彼と亜沙の演じるラブシーンはただの茶番でしかありえません。
 確かにラストは結ばれなかったけれど、アニメ版SHUFFLE!のメインヒロインは楓と言う事でいいんじゃないかと思います。明らかに亜沙じゃなくて楓の方にピントがあったストーリー展開でしたから。

 結局、亜沙はスケープゴートに過ぎなかった気がします。製作者側も、本当に描きたかったのは亜沙ではなく楓の方だったのではないでしょうか。そう考えると亜沙も可愛そうな役回りだったのかもしれません。(本当に可愛そうなのは、後半サブヒロインどころかモブキャラに成り下がっていたシアとネリネですが)

 そもそも、SHUFFLE!をこのような形のアニメにする事自体無理があったような気がします。もともとグラフィック頼りで極端にストーリーが脆弱(そしてそれは決して悪い意味ではない)な作品なのに、シリアス(?)な展開なアニメを作る必要があったのかと。それを無理に真面目な展開にした所為で、亜沙は道化を演じ、主人公は最低の人間に成り下がり、楓は壊れ、原作の持つ雰囲気は粉々に破壊されてしまいました。大人しくハーレムエンドでなあなあなストーリーにしとけばこんな事になならなかったでしょうに。
 
 結局、良い意味でも悪い意味でも淡白だったゲーム版の良さはアニメ版では微塵も残っていませんでした。あまり評価が高くないというのも仕方ない気がします。
 アニメ版スタッフは張り切りすぎて空回りしてしまった印象です。そんな真面目にシナリオを練り上げるような作品でもないでしょうに。もっと肩の力を抜いて作ればよかったのに……。
 唯一、この作品で褒められる事があるとすれば、それは……。



眼鏡っ娘なプリムラは素晴らしい!!!



 という事です。



主張の轍
 ネタを探してネットを徘徊していたら、堕胎と知的障害者について興味深い事を述べている文章を見つけました。
 曰く、自分は堕胎には反対である。何故なら世間では知的障害者を保護しさせる事が肯定されている。彼らを差別し排斥すれば世間から非難される。なのに堕胎はが許されるのはおかしい。堕胎が許されるのであれば、知的障害者を殺してもいいはずだ。堕胎だけが許されるのは矛盾している、と。
 かなり端折っていますし私なりの解釈を入れた文章なので作者の意図とはかけ離れているかもしれませんが、私にはこんな感じに読み取れた文章でした。

 で。興味を持ったのはこの人の主張が私とはまるっきり正反対でありながら、私と非常に似ていたからです。

 知的障害者が肯定されて、堕胎だけ否定されるのはおかしいという筆者の主張は私は全面的に賛成です。まったくその通りだと思います。しかし、筆者と話の核となる部分で見解の一致を見た訳ですが、その後の考え方が私とはまるっきり逆になるのだから面白いです。
 この筆者は「だから堕胎には反対だ」と自分の主張と結びつける訳ですが、私は「だから知的障害者は淘汰されるべきだ」と自らの主張に繋げる事が出来る訳です。堕胎が許されるのに、先天的な障害を持った胎児をそうと分かった時点で処理出来ないというのはおかしいと思うから。(無論、理由はそれだけではありませんが)

 恐らく、それぞれの真逆の主張はその出所は同じです。堕胎に反対するのは恐らく殺される胎児の事を慮ってでしょう。殺される胎児が可愛そうだと思うから堕胎に反対する。そして私は障害を持たずに生まれる方がいいと思うから優生学を支持するわけです。その方が幸せだと思うから。
 両者、どうすれば人類が幸せになれるかを考えた結果の結論だと思います。

 何事も主観如何でどうとでも解釈できると言う事を改めて実感しました。まあ、そんな事は朝日と産経を一緒に読めばいくらでも分かる事ですが。


潔癖症への危惧
 潔癖症、と言っても常に手袋を着用していたり洋式便器に触れない人ではなくニュースに出てくるコメンテーター達の事です。
 官僚や各種公務員なんかの汚職や天下りを糾弾し「汚職を無くさなければならない」なんて息巻いている姿を見るたびにこいつら何言ってるんだと思うんですよね。


役人は悪さをするに決まっているじゃないですか!


 何を今更眠たい事言っているのかと。
 権力の傍にある役人がその権力を使って私腹を肥やすなんて、それこそ千年単位で続いている伝統行事です。言って簡単に無くなるのならとっくに無くなっています。
 
 まず、役人が汚職しないと考える方が間違っています。普通の役人は汚職をします。権力の傍にあってそれを使える立場にあるなら使うに決まっています。むしろ使わない役人の方を例外と見なすべきでしょう。
 別に役人が悪人ばかりだと言いたいのではありません。彼らは至って普通の人達で、たまたま権力が使える立場にあるからそうするだけです。もしも彼らがTV局か新聞社に就職していたなら逆に役人の汚職を糾弾していたでしょう。逆に彼らを糾弾しているマスコミの人間が役人になっていたらやはり汚職をしていた事でしょう。
 汚職といっても別段悪事を働くという感覚はあまりないでしょう。別に殺人や強盗をするわけではないのですから。ただちょっと便宜をはかってやる代わりにお金を貰う。それだけの事です。だからこそ連綿と続いてきている訳ですが。
 
 それを血眼になって根絶やしにするというのはあまり好ましい事ではないと私は思っています。あまりに規模が大きいものは兎も角、ほんの些細な物まで摘み取る必要はないのではないかと。
 なぜそんな風に考えるかというと、人材の流出を危惧するからです。
  もともと日本では有能な人材が政官界よりも財界に流れやすい伝統があるそうで。(そういや坂本竜馬も海援隊なんて作っていましたが)このご時世にそんな流れを加速させてどうするんだなと。官僚の給料は一流企業のそれと比べて決して高くありません。ゆえに、汚職によって得られる不法利益は人材を官界に呼び寄せるための重要な呼び水となります。

 汚職で私腹を肥やす事になろうとも、その分有能な人材が集まるのならば結構な事ではないでしょうか。

 「金ではなく国の為に働く人材を集めるべきだ」と言う人がいますが、そのような善意に期待など出来ません、というよりしてはいけません。人は何事にも利無くしては動きません。そして人の「利」を考える際に金銭ほど分かりやすいものはありません。それゆえに金の為に働く人間はどこまでも金に忠実になりもっとも確実に人材の質は保証されます。

 現在、政治家や官僚の給料を減らしその汚職を払拭する事が拍手喝采で尊ばれるような風潮がありますが、それらは自ずと両者の質自体の低下を招く物だという事を忘れてはなりません。そしてその結果齎される不利益と果たして釣り合いが取れるのかどうかよく考えてみるべきです。
 世の中、善と悪で割り切れるほど単純ではありません。


ロリの嗜好
 ロリゲー専門ブランドとして名高い(?)私立さくらんぼ小学校の作品をプレイしていたりします。
 このブランドで、ロリ好き以外の人には地雷にしかなりえないような気合入ったロリゲーを作っている事で有名です。で、自他共に認めるロリ好きの私は嬉々として吶喊したわけですが、結論から言えば完全地雷でした。
 いったい、一口にロリと言ってもその嗜好は当然のように多岐に渡る訳でして。気付かされたのは、私立さくらんぼ小学校の人とは、同じロリ好きではあるのだけれども、決して分かり合えないと言う事です。
 というか、私の嗜好がロリ好きの中ではかなり特殊な部類に入るのが原因なのですが。
 ロリキャラというのは、その外見に比例してか無邪気で元気で天真爛漫、といった風なキャラが多く、ロリ好きな人達もそのようなキャラクターを好む傾向が多く見られるのですが、こういった性格のキャラクターは私の嗜好とは正反対だったりします。

 私の好きなキャラの性格は一言でいえばツンデレ、と言うか二面性のある性格なわけですが、単に二面性があるなだけではなく計算高く腹黒いキャラクターが大好きなんですよね。好きな人(=主人公)を手に入れるためならば権謀術数を張り巡らせライバルを蹴落とし、抱かれた胸の中で「計画通り!」とか言いながら口の端を吊り上げるような。
 戦国時代の奇襲作戦で例えるなら桶狭間より厳島な訳です。覚悟を決めて乾坤一擲の勝負に出るような織田信長のような潔さ、真っ直ぐさではなく、正義の旗を振りかざしながら十重二十重に謀略を巡らし、用意周到な罠の中に相手を招き入れ料理する毛利元就のような凄みを持ったヒロインが好きなのです。
 とまあ、そんな本気で訳の分からない例えはさておき、現実にはそんなキャラクターはロリキャラに限らずギャルゲー自体にほとんど存在しない訳で(以前書いた朝倉音夢などは例外中の例外でしょう)、ロリキャラは更にその傾向が強くなります。
 せめて、自分がロリで処女ある事を利用して主人公を他のヒロインから寝取るぐらいの事をするロリキャラを期待しているのですが、何処にも見当たらないのが現状です。と言うよりも、ギャルゲー全体のキャラゲー化傾向が進み、ヒロイン同士の絡みが極端に減っているのですが。過去からの因縁だの約束だので主人公が好きだったくせに、恋人(それも多くの場合は自分の知っている人間)が出来たぐらいであっさりと何の恨み辛みも見せず身を引くヒロイン達には怒りを禁じえません。お前の想いはその程度だったのかよと。

 主人公+ヒロイン複数による血で血を洗うような陰鬱で凄惨な愛憎劇が見たい私はやはりマイノリティーなのでしょうか……。



ゆびさきミルクティー

 買ってからずっと放置していた「ゆびさきミルクティー」の七巻を購入から一ヶ月目にして、モチベーションフル動員の末やっと読み終わる事が出来ました。

 なんでそんな長い間放置してたかというと読む時間が無かったとかでは全然無くて。要するに読む勇気が無かった訳です。惨劇へと続く扉を好き好んで開ける人間がいるでしょうか?
 で、予想通り読み終わってからかなり欝になっていたりします。欝ゲーの代名詞「君が望む永遠」なんぞ屁とも思わなかった私が、です。←全く関係ない

 で、漫画を読んだだけでなんでそこまで欝になっているかというと、まあ単純にストーリー展開が気に入らなかっただけなんですが。

 このゆびさきミルクティー、気違いと変態しか登場しないという点を除けば主人公とヒロイン二人を中心に描かれた良くある恋愛漫画です。ヒロインはそれぞれ、幼馴染の中学生(森居 左)と同級生のクラスメイト(黒川 水面)。


幼馴染とくっつく事を期待するに決まっているじゃないですか!


 なのに、散々思わせぶりな態度を取っておきながらあっさりと同級生の方に鞍替えする主人公。いっそ死んでくれと思いました。
 元々好きなシリーズだっただけにダメージが大きいんですよね。そもそもヒロインの森居左がキャラクター的にかなり好きだったのに対し、もう一方の黒川水面がビジュアル的にも性格的にも完全ブサイクNGだったんで、主人公とのラブシーンを見ていると純粋に気持ち悪かったです。挙句、主人公が臆面もなく「愛してる」。吐き気がしました。性質の悪い獣姦でも見させられている感じで。何か、楽しんでこの漫画を読んでいた頃が走馬灯のように思い浮かんできてしまいました。途中でこんなに評価の変わった作品も珍しい気がします。

 ところで、この作品にここまで嫌悪を覚えてしまった事に関して、もしかしなくても自分はエロゲーのシナリオに慣れすぎてしまったのではないかと思わざるをえません。
 一部例外はあるもののヒロイン主導型のエロゲーは大抵、複数いるヒロインの中から一人を選んでその選んだヒロインに沿った物語が展開されていきます。言うなれば作品の中にヒロインの数だけ物語が並列して存在しているわけです。
 ヒロインの中には当然自分の好みに合う者合わない者といる訳ですが、それらが全て同時に存在している為、自分に都合のいいストーリーを本伝としてそれ以外の物語をアナザーストーリーと自分の中で位置付ける事が出来ます。どんなサブヒロインであっても自分の為に用意されている物語の中では(そしてそれを望んでいるユーザーの中では)メインヒロインになれるのです。
 もしこのゆびさきミルクティーがエロゲーであったとしたなら、きっとヒロイン二人それぞれにストーリーが用意され、主人公はどちらとも結ばれる事が出来たでしょう。
 しかし、漫画ではそうは行きません。原則、出来上がるストーリーは一つだけ。メインになった者と、なれなかった者の間には歴然たる差が現れてしまいます。自分の好きなヒロインがメインの座を勝ちえたのならいいかもしれません。しかし、そうでない場合その物語は大きく魅力をそがれてしまう事にすらなりえます。私にとってのゆびさきミルクティーのように。

 エロゲーに慣れすぎた所為でそんな単純な図式に対しての免疫が無くなっていたのかもしれません。
 いいたい事だけ言って上手く纏まらない変な文章になってしまいました。やはりそれなりに思いいれが大きい作品だった所為なのでしょうか。

追記:関連拍手とレス
>高校生だから「愛してる」なんだと思います。勢いでみたいな。

ああ、確かに年と取るごとに「愛してる」の重みが増しますからね(主に女性側で)
第三者から見たら失笑物でも、本人達は大真面目なのでしょうね……。

>いつも興味深い戯言見させてもらってます。中学生だとエロゲーにはできませんね(笑)

その辺はほら、「このゲームに登場する人物は全員18歳以上です」と冒頭に入れておけばノープロブレム。
まあ、私立さくらんぼ小学校みたいに気合入った所もありますが……。

>ここからまた波乱があるのかも知れませんよ?それだけ信じましょう。信じましょうよ…(目頭を押さえつつ)

そっ、そうですよね。諦めたらそこで試合終了ですよね(目頭を押さえつつ)



アニメD.C.回顧録
 部屋を整理していたらアニメ版D.C.のDVDが出てきました。


 
 ↑こいつら


 当時、金があったんでしょうね。今となってはなんでこんなものを買ってしまったのか皆目検討も付きません。
 ちなみに。萌えという要素を除けば世間ではそんなに評価の高くないD.C.ですが私は結構好きだったりします。(あくまで元祖の無印D.C.であってD.C.P.C.を始めとする関連作品は例外なく駄作だと思いますが)
 なんといってもメインヒロインの音夢がいいです。こんな腹黒い萌え系ヒロイン見たことありません。(注:褒めています)
 もともと嫉妬だとか三角関係のドロドロだとかが好きな私ですが、昨今ではそのようなヒロインや人間関係は好まれない傾向にあるのか、オーガスト作品に代表されるようになんの感情起伏も葛藤も無いただただ萌えに特化されたストーリーとキャラクターが持てはやされる傾向にあります。
 正直、誰かとくっ付いたら他のヒロインはほとんど無かった事にされ、好きだった相手が誰かと付き合っても嫉妬の一つも見せないような展開にはうんざりしていました。

 そんな中にあってこの音夢です。

 パッと見コテコテの萌えゲーのメインヒロインでありながら、主人公に近づく他のヒロインに敵意を剥き出しにし、露骨且つ陰湿に嫉妬する姿を主人公に見せつけ、まんまと主人公争奪戦に勝利するその姿。最高です!

 だのに、です。
 アニメ版ではその辺の描写が悉く改変されてしまっているんですよね。さらには音夢を際立たせる形で他のヒロインまでも。
 アニメでの変更点は裏音夢の設定とかラスト付近でのさくらの狼狽ぶりとか色々あるんですが一番突っ込みいれたいのはさくらの「約束」
 本来物語の冒頭でさくらは島に帰って来た理由を呟いているんですよね。

「約束、破りに来たよ」

 と。

 このシーン、アニメ版ではカットされているんですが、その代わりにさくらが島に帰って来た理由を音夢達に語るシーンがあります。
 で、さくらは語る訳です。島に帰って来たのは約束を果たすためだと。


果たしてどうする!?


 さくらの健気な想いを表すエピソードを完全無視。というか意味、180度変わってるし。それも物語の結構根幹な部分が。
 製作スタッフは原作を知らないのか、それともわざとこうしたのか。むしろスタッフはさくらが嫌いなのか。理由は判りませんが、やはり原作から入った人間の一人としてはどうしても違和感が……。


 なんとなく三国志演義の劉備を連想させます。本来ヤクザか暴走族の親分のような事をしていた劉備でしたが演義では儒教の影響を受け品行方正な孝行息子に。逆に曹操や董卓なんかの敵役はひどく矮小化されてしまっています。そして私は演義の劉備が大嫌いです。

 このD.C.と君が望む永遠のおかげでパソゲーのアニメ化なんてろくなもんじゃないとしっかりとインプットされてしまいました。(君望の方はラスト水月エンドと知った時点でHDに入っていた分全て消したので最後まで見ていませんが。大空寺エンドなんて贅沢は言わないからせめて水月との対決のシーンだけでも再現して欲しかった……。)
 そもそも、パソゲー原作で評判のいいアニメってあまり話を聞きませんが、私が知らないだけで中には名作もあるんでしょうか?



殺すという事
 人を殺す事は悪い事だとしても、人を殺そうとした意思までを悪として無差別に断罪してもいいのか、考えてしまう事があります。
 教育の現場から漫画やゲームに至るまで、ある種歪んだ形で行われている殺人否定を見ているとどうしてもそこに疑問を投げかけたくなります。殺人を全否定するというのは単なる思考停止に他ならないのではないかと。
 例えば、恋人や家族など愛する人を殺された人間が犯人を殺したいと考えるのはある種当然であり、そういった感情を全く抱かないとしたら、むしろその方が人として異常なのではないでしょうか。

 同人ゲーム「ひぐらしのなく頃に」の作者が殺人の否定と銘打った文章を書いていました。殺人や自殺を短絡的問題解決手段と位置付け、しかし「殺人」の罪は容易に償えるものではなく、そのような覚悟があるのなら他に訴える手段があるのではないか?といった趣旨の文章でした。
 言わば殺人に対する「罰」の側から殺人を否定している訳です(筆者の本意は別にあるかもしれませんが)。現在の日本に置ける殺人罪の法定刑は「死刑又は無期若しくは5年以上の懲役」であり確かに決して軽くはありません。言わんとしていることは十分に頷ける事です。
 しかし、殺された側にとってこの刑罰は決して重いものではないでしょう。日本では一人を殺しただけで死刑が求刑されることなどまずありません。無期といったところで終身刑では無いですから二十年もすれば出所が可能です。もし犯人が未成年などだったりしたら言わずもがなです。

 殺人を肯定する訳ではありませんが、個々の状況により殺意というものは十分に尊重されて然るべきなのではないでしょうか。殺人に対する「罰」よりも、それをしない事に対する「罪」の意識が上回った結果が復讐という行為だと思います。それは決して非難されるべき事ではありません。もし愛する人を殺されても恨み一つ抱かずに犯人を赦せる人間がいるとしたなら、それは決して立派な事ではなく、単にその人を大して愛していなかっただけの事でしょう。愛と罰を秤に掛けた天秤が罰に傾いただけの事です。

 少なくとも、自分はそういう人間にはなりたくありません。愛する人の為ならば、罪に躊躇する事無く復習を果たせる人間になりたいと思う次第です。
 問題は、肝心の愛する相手が居ないということですが……。



謝罪する人
 前から気になっていたんですけれど、なんで犯罪者に謝罪や反省を世間は求めるのでしょう?
 事件や裁判のニュースを見るたびに思います。被告は深く反省しているからといって刑を軽くしてみたり、逆に犯人に謝罪の言葉が無いからと言って非難してみせたり。過失の事故だったらともかく、放火や強姦、殺人の犯罪を犯した人間に対し、そのようなものがいったいどれほどの価値があるのでしょうか。
 私が遺族なんかだったら絶対に嫌ですけどね。人を殺しました。でも今は反省しています。判りました、減刑しましょう。なんていう成り行きは。
 むしろ余計に腹が立ちます。謝罪なんかされたら。謝るぐらいなら、反省するぐらいなら最初からやるなと。お前謝って自分が楽になろうとしてるだけなんじゃないのかと。
 金目的なんかの犯行だっていうんなら話は別ですが、怨恨とかで人を殺したのならむしろ謝ったりせず、きちんと信念を貫き通して欲しいです。これこれこういう理由で殺しました。でも後悔はしていません。そう言い切って欲しいです。
 そういえば、計画的犯行よりも衝動的犯行の方が刑が軽くなりますが、これもおかしいと思います。というか、衝動的に殺すと刑が軽くなるというのはどういう理屈なんでしょう?些細な事でカっとなって殺したっていうよりも、どうしても赦せない理由があって計画を練りに練って殺したっていう方が納得出来そうなものですが。
 私は人を殺すと言う事実が悪だとしてもその行為までが悪だとは到底思えません。世界貿易センターを粉砕した同時多発テロなど、巻き添えを食らった人にはご冥福をお祈りしますが、彼ら殉教者の行いを悪だなどと言いきってしまうのはどうしても合点がいきません。そもそもアメリカに虐げられしイスラムの住人にとっては彼らはテロリストではなく英雄でありあの事件をテロなどと呼ぶことすら一方的なものの見方なのかもしれません。彼らのとっては殺人は目的ではなく手段でしかないのですから。そして彼らは決して謝ったり反省したりしないでしょう。自らの行いに信念を持った確信犯である彼らは。
 殺人を一から十まで否定するのではなく、そこにいくに至った経緯を考えることも必要なのではと思います。
 ゲームにまで横行する過剰な人道主義を苦々しい目で見つめながら。


迷惑運転
 わき見、飲酒、居眠りに無免許。違法、迷惑運転数あれど、一番迷惑なのは速度遵守だと堅く信じています。
 飲酒運転で事故が起きたなんてニュースは毎日のようにテレビや新聞で騒ぎ立てていますが、幸いにも身近な人間を事故で失った事の無い私にとってはどうしても遠い世界の出来事でしかありません。遺族の気持ちが全く理解出来ない訳ではないですが、だからと言って、事故を起こした運転手本人だけではなく、一緒に酒を呑んでいた運転手の友人や、飲み屋の店長を「飲酒運転を止められたはずなのに止めなかった。許せない」などと騒ぎ立てる姿には、滑稽さを感じてしまいます。私自身が酒に酔わない為、「飲酒運転は犯罪行為だ。それで事故を起こして人が死んだら殺人だ」などと言われても理解出来ないというのもあるかもしれませんが。
 それはさておき、速度遵守という迷惑運転です。迷惑と言うなら、事故を起こさない限り問題の無い、わき見や飲酒、それ自体では何の迷惑も蒙らない無免許運転より何倍、何十倍も迷惑です。
 別にどんな状況でもそれが迷惑だと言っているのではありません。教習所の車なら、隣に教官が座っている訳だし、カーブの多い道など、トラックがスピードを出せないのも判ります。雨や雪が降る日だってあります。ですが、何の障害も無い見晴らしのいい国道で40qぐらいでチンタラ走っている車がいると、後から思いっきり追突してやりたくなります。人の迷惑考えろと。
 でもまあ、運転している本人はそんな迷惑まったく考えていないでしょう。それがこの迷惑運転の一番性質が悪い点で、あくまで本人は交通ルールを守っているわけだし、法律と言う大義も持ち合わせているのでどれだけ迷惑を掛けていようが本人に罪悪感など一切無いのです。
 高速道路など一部を除き、道路には制限最高速度は設定されていても、最低速度は設定されていません。上限が60qの道を10qぐらいで走り続け、後ろに大渋滞が起こったとしても法的にはなんら問題は無い訳です。そして、10qというのは極端ですが、中には制限速度以下のスピードで走っている運転手は数多くいます。(自動車に付いているスピードメーターは実際の速度よりも何qか上乗せして表示されるので)
 ライブドアが行った時間外取引に似ているのかもしれません。別に法律を犯している訳じゃないから本人は悪びれる訳じゃない。でもそれで迷惑する人は確実にいる。……あんま似てないですね。

 いったい、何故人の命を奪うのがいけないかと言ったら、その人の時間を奪うからだと私は思います。その人が残りの人生で成しえただろう事を、命を奪うことによってなし崩し的にキャンセルしてしまうところに、人を殺すという事の罪があるのだと思います。だとしたら、不必要にゆっくり走る事によって移動に掛かる時間を増やし、貴重な人生の一部分を殺ぎ取っているこの迷惑運転も殺人行為の延長線上にあるのではないでしょうか。……と、そんな訳の判らないことをほざいてしまうほどに私は怒っている訳です。(何のこっちゃ……)
 
 スピード違反をして事故を起こすのはまずいかも知れません。しかし、多少のスピード自体はさして問題にならないし、国民の大半もそう捉えています。少なくとも私は、ネズミ捕りでスピード違反を取り締まっている警察官を褒め称える人に出会った事はありません。捕まった人に対して掛ける言葉は大抵において「運が悪かったな」です。決して捕まった人を責めたりはしません。
 制限速度を上げるかせめて国道は二車線にするか、もう少し気分良く道路を走れるようにして欲しいと思う今日この頃です。無駄な工事に使う予算は山ほどあるのですから。


男の料理、女の料理
 一般に「男の料理は美味い」と言います。なんでそんな事を言うのか最近まで判りませんでしたが、実家で母親の料理を食べていたら気付きました。
 親の作る料理より、私の作る料理の方が美味しいんですよね。
 別に私は料理が得意なほうではありませんし、レパートリーの数だって両手両足を使えば事足りてしまいます。そんなに凝った物も作れません。
 でも、たまに真面目に料理を作るときは必要以上に凝って作ってしまいます。
 パエリアを作る為だけにサフランを買い、カレーを作るのにカレー粉ではなく香辛料を鍋に入れ、ハヤシライスを作る為牛すじ肉を何時間も煮込み続け。
 食費を安くする為の自炊だったはずなのに、どう考えてもコンビニ弁当の方が安上がりになっています。どうしようもない本末転倒。
 こんな手間と金を使った料理、財布を預かり毎日料理を作っている主婦にはあまり真似出来ません。たまにしか作らないからこそ不必要に力を入れて作れる男の料理と主婦が連日作る料理とでは根本的に質が違うのです。
 思えば、家庭での料理を作るのは圧倒的に女性が多いのにレストランからラーメンの屋台まで客に食べさせる料理を作るのは逆に男性が多いのも同じような理由からなのかもしれません。人に食べてもらう料理と、食べさせる料理の違いとでも言うのでしょうか。男と女では脳の構成が違うと言いますが料理一つを取ってみても考え方の違いが現れてくるのかもしれません。そしてその結果出来た住み分けがこのような状況を生み出しているのではないかと思います。
 女性が料理を作るのは男性からの抑圧だなどと金切り声を上げて叫ぶ連中がいますが、その前にもう少し大らかな心を持ったらどうだと言いたくなります。料理とは本来楽しいものであるべきだし、好きな人の為に何かをすると言うのも幸せな事である筈です。少なくとも、自分が料理を作って上げたいと思える男性もいない者がそのような一方的な理論をほざいたところで全国の主婦への罵倒にしかなりえませんから。

 そんな取りとめも無い事を考えながらハンバーグを作っていたらパン粉が無い事に気付き「パン粉が無ければパンを使えばいいのよ!」という事で食パンを細かくしてパン粉の代わりを作っていたら無駄に時間がかかってしまいました。もう少し、手元にある材料に応じて作る料理を変えられる柔軟さが欲しいと思う今日この頃です。




「愛している」はあと何度
「心からきみだけを愛している」あと何度言えるの?

 ゲーム「グリーングリーン3 〜ハローグッバイ〜」をプレイしていて心に残った台詞です。
 と言ってもこの台詞、作品内に出てきたものではなく同作品の主題歌「ハローグッバイ」のそれも二番の歌詞に出てきたものです。なのでゲームをプレイした人でも知らない人の方が多いかもしれません。しかし、なかなかにゲームの内容に即した歌詞だと思います。
 歌詞の解釈の仕方は人それぞれだと思いますが、私は『いつまでも君を愛していられる訳ではない。だから、そう心から言える今は精一杯きみに愛していると言おう。』という風に解釈しています。
 もし愛が永遠だったら。それが幸せな事なのかそれとも不幸な事なのか私には判断しかねますが、ゲームに限らず映画やドラマ小説など様々な分野で題材にされ続けてきたそれは決して現実ではない空想の産物であるが故に人々の想像力を喚起し創作意欲を掻き立てます。

 「世界の中心で愛を叫ぶ」や「冬のソナタ」に代表される純愛ブームを醒めた目で見つめ続けていた私にとって、この一種流行に逆行したようにも映るこのグリーングリーン3のストーリーは新鮮さとある種の清涼感を伴った読後感を与えてくれました。
 かつてポール・サイモンは「音楽は常に過去に向かって進行している」「音楽というものは生み出した瞬間にもう終わっているんだ」
と語りましたが、この「音楽」の部分には恋とか愛などという言葉がそのまま当てはまるのではないかと思います。
 音楽と同様、人の想いも決してその場に留める事は出来ません。生まれた恋心は刻々と変化していき、あとに残るのはただその余韻のみです。
 始まりがあるなら終わりもある。至極当然の事ですが、子供達が夏休みが終わる事を悲嘆するように人々が恋の終わりを嘆くのもまた当然の事なのかもしれません。それが現実の世界で無理ならばせめて空想の世界でと思うのも。
 そんな中に出てきたグリーングリーン3という作品と冒頭の一文。それはもしかしたら純愛ブームがあったからこそ世に現れたのかもしれません。
 朔太郎やミンヒョン、彼らははあと何度愛していると言うのでしょう?



桜咲く
「春の花と言えば?」

 と言う問いに、恐らく殆どの日本人は桜と答えるのではないでしょうか。
 桜が咲くことで春の到来を知る。在原業平をはじめとした数多くの歌人達がその美しさを歌い、現在でも桜の開花は人々の関心を買い、桜前線などという物を作り出すに及びました。万葉集の頃からの日本人の桜に対する特別の想いは現在も形を変えて脈々と息づいてます。
 しかし私にとって春と言えば桜よりもまず梅を思い浮かべます。幼い頃から沢山の梅の木に囲まれた環境で育ったので、梅の蕾が綻びかけ、その香りが風に乗って届くようになると春が来た事を実感します。私にとって春の香りとはイコール梅の花の香りなのです。

 とまあ、桜や梅の花に代表される草花の息吹だけが春の風物詩ならこれほど素晴らしい事も無いと思うのですが、世の中にはそのような風流からはかけ離れた風物詩もある訳でして。つまりはそう、年度の終わりから春先に掛けてそこかしこで行われる道路工事のような。
 この時期の道路工事など大抵は必要に迫られたものではなく、残った予算を消費してしまう為のよくある無駄な公共事業でしかないのですが、本気で止めて貰いたいです。まだ雨の少ないこの時期、工事で巻き上げられた砂埃は空気を灰色に染め、車の通れなくなった道路はいたる所で無駄な渋滞が巻き起こっています。
 予算が残ったりしたら来年度から予算が減らされる恐れがあるので必死になる気持ちも判らないではないですが、無駄金使ってその上人様に迷惑掛けるなと。だったらカラ出張でもなんでもしてくれたほうがこちらに迷惑が降りかからない分よほどましです。
 道路の脇に植えられた桜の木に道路工事の砂埃が降り注ぐのを見るとひどく物悲しくなります。

 P.S.春と言う事でD.C.のサントラを引っ張り出しエンドレスで聞いていたとかはどうでもいい話。



敬語
 敬語というやつが苦手です。
 と言っても別に、ファミレスの馬鹿なウェイトレスみたいな言葉遣いをしている訳ではなく、単純に敬語を使うべきときに使わないだけなんですが。
 敬語を使う相手と言うのは自分より立場が上の人間だったり、取引先の相手だったり、商売をしているのなら客だったりしますが、一番ケースとして多いのは自分より年上の人間だと思います。で、この年上の相手に敬語を使うと言うのがどうにも苦手だったりします。
 別に年上なら誰でも彼でもタメ口聞いている訳じゃありませんし、ちゃんと敬語使っている相手の方が多いんですが、どうしても敬語を使えない相手というのがいたりします。
 なんて言いましょうか、別に年食ってるだけで偉い訳じゃないんだぞ、と。
 年長者を敬うというのは、その相手が自分より多くの年月を生きその結果として多くの知識経験を積んでいるからこそだと思います。だからこそ敬意を表し、敬語を使うと。
 しかし世の中には、どう考えても人生無駄に生きてきたとしか思えない人間を多々いる訳で。別に自分より早く生まれたってだけじゃ敬おうなんて思えないんですよね。
 自分より頭がいいわけじゃない、体力があるわけじゃない、喧嘩が強いわけでも無い、金も無い、処世術も無い、思想も主義主張も持ち合わせない、才能も無いし何かをやり遂げた訳でも無い。もてもしない、ついでに言えば夢も無い。そんな相手にいちいち敬語使う必要があるようには思えないんです。だったら屋久島の杉の木にでも敬語使って話しかけていたほうがマシです。

 敬語を使えない人間と言うのも問題かもしれませんが、敬語を使わせる気にならない人間と言うのもどうなのかと思ってしまいます。
 何か一つでも尊敬できるものがあれば十分敬語を使うに値するとは思うのですが……

カラフルアクアリウム応援中!戯画 『フォセット』 おうえんバナー企画参加中♪

『PRINCESS WALTZ』応援バナー昔のサイトである

ホームページ売上アップ診断+オリジナルSEO対策ツールで売上アップ!
ホームページ売上アップ診断+オリジナルSEO対策ツールで売上アップ!
異邦人の停留所